古米についてよく耳にするのが、「古米は水をよく吸う」とか「古米は炊き増えする」という話です。若い人はあんまり言わないみたいですけど、ベテランの料理人さんは普通に口にします。
一方、古米は組織が劣化して吸水力が落ちる、という説明も聞きます。
ややこしい、どういうことなのか?
「古米はよく吸水する」の根拠としては「古米は新米より乾燥がすすんでいる」と説明がされます。新米よりも水分が抜けているので、その抜けた水分ほどより多く吸水する余裕がある、新米よりも伸びしろがあるという理屈です。生米との重量比、容量比で新米よりも古米のほうが増え方が大きい、つまり「古米は炊き増えする」。細かいところですが職業人としての料理人さんにとっては、この古米と新米のコスパの違いは常識的な知識となっているようです。また、天日乾燥しかなかった時代、新米は乾燥不十分であることが多かったようで、より炊き増えの程度も明確でそれにより古米が高く評価されたりしたようです。
例えば1969年に出版された沢田徳蔵『うまい米』から戦前の「追古」についての記述を引用します。追古とは1シーズン前の古米に対して1~5月の期間に限定して使われた呼称だそうで、「ついこの間」古米になったという意味でツイコとのこと。昨シーズン平成29年産のコメは年明けて平成31年の1月から5月までの間は追古ということになります。
蒸発した水分の差であれば、実質的なデンプン、タンパク質、その他の量は変わらないのだから、「同じ三杯食べても実質は追古のほうが量が少ないわけで」というのはちょっとわからないのですが、実際に体感して腹ぐあいがよかったのでしょう。
もうひとつ、敗戦直後の農村を描いた横光利一の「夜の靴」の一節です。コメが不作となり村内のほかの農夫たちがつぎつぎとコメを持っていそうな久左衛門に借りに来る。うんざりした久左衛門が愚痴ります。
ちょっと大げさなのでしょうが、久左衛門さんの言葉通りとすれば、古米と新米で20%もの差があることになります。今の新米、古米でこんな明瞭な差はありません。現在では、水分値から考えても、新米でも15%超えることはなく、古米でも13%を下回ることはまずありません。実感できるほどの炊き増えはもう過去のものと思ってよいのでしょう。
「古米はよく吸水する」の根拠としては「古米は新米より乾燥がすすんでいる」と説明がされます。新米よりも水分が抜けているので、その抜けた水分ほどより多く吸水する余裕がある、新米よりも伸びしろがあるという理屈です。生米との重量比、容量比で新米よりも古米のほうが増え方が大きい、つまり「古米は炊き増えする」。細かいところですが職業人としての料理人さんにとっては、この古米と新米のコスパの違いは常識的な知識となっているようです。また、天日乾燥しかなかった時代、新米は乾燥不十分であることが多かったようで、より炊き増えの程度も明確でそれにより古米が高く評価されたりしたようです。
例えば1969年に出版された沢田徳蔵『うまい米』から戦前の「追古」についての記述を引用します。追古とは1シーズン前の古米に対して1~5月の期間に限定して使われた呼称だそうで、「ついこの間」古米になったという意味でツイコとのこと。昨シーズン平成29年産のコメは年明けて平成31年の1月から5月までの間は追古ということになります。
戦前の自由取引時代には、新穀がとれて古米扱いされるようになっても、梅雨前までは「追古」といわれて値段も新穀と変わらず、筋肉労働者でないサラリーマンや老人には追古のほうがかえって喜ばれたものである。
・・・中略・・・
これは味も新穀ほどにしつこいことがなく、かつ追古の方が炊きぶえするので、同じ三杯食べても実質は追古のほうが量が少ないわけで、腹ぐあいがよかったのである。
・・・中略・・・
追古が炊きぶえする理由は、一年間保存されているうちに(じょうずな保管でないといけないが)水分がいくぶん自然蒸発して乾燥がよくなっていたからでないかと私は思っている。
沢田徳蔵「うまい米」
蒸発した水分の差であれば、実質的なデンプン、タンパク質、その他の量は変わらないのだから、「同じ三杯食べても実質は追古のほうが量が少ないわけで」というのはちょっとわからないのですが、実際に体感して腹ぐあいがよかったのでしょう。
もうひとつ、敗戦直後の農村を描いた横光利一の「夜の靴」の一節です。コメが不作となり村内のほかの農夫たちがつぎつぎとコメを持っていそうな久左衛門に借りに来る。うんざりした久左衛門が愚痴ります。
「死ぬ、死ぬ、いうて、朝からもう、来るわ来るわ。米を貸してやるのは人情だ。けれども、毎年貸してばかりで、借りる方は、借りるのを当然だと思うて有難がりもしやしない。今年も貸してやるとなると、借りたものが助かって、貸したものが死ぬじゃないか。死ぬなら共倒れになりたいものじゃ。借りたものだけ助かって、おれだけ死ぬのはおれはいやだ。」
「それはそうだのう。」と一人がぼんやりした声でいう。
「もうこうなれば、誰も米がないということにするより仕様がない。あれがある、これがないといっていたんでは、始まらないじゃないか。あっちから貸せ、こっちから貸せでは、もうおれの米だって、いくらもないわ。新米が出たら返すというが、古米を貸して新米で返されたんじゃ、一升五合と一升二合との替えことで、話にもなるまい。古米は古米で返して貰わねば、ま尺に合わぬわ。」
なるほど、新米一升と古米一升では、炊き増えする古米を貸したものの方が、はるかに損をするということ。
横光利一「夜の靴」
ちょっと大げさなのでしょうが、久左衛門さんの言葉通りとすれば、古米と新米で20%もの差があることになります。今の新米、古米でこんな明瞭な差はありません。現在では、水分値から考えても、新米でも15%超えることはなく、古米でも13%を下回ることはまずありません。実感できるほどの炊き増えはもう過去のものと思ってよいのでしょう。
一方の、「古米は吸水しない」の説明は、「古米化すると細胞壁をつくるセルロースなどの成分が結合して水が侵入するのを邪魔してしまう」という話。水がしっかりと吸われるまでに時間がかかるということでしょうか。
よく「古米は吸水率が悪いので水加減を多めにする」という説明があります。しかし吸水率が悪いなら水加減を増やしたところで水蒸気や飯粒表面の付着水が増えるばかりではないか?との疑問が浮かびます。吸水率、吸水力を浸漬中にコメが吸える水の限界量や吸水スピードとするならば、いくら水を増やしてもコメの能力には関係ないはずです。でも、古米は水を増やした方が良い結果になることは皆さん実感されているのではないでしょうか。「吸水率云々・・・」という説明がよろしくないのか?
炊飯は加水量を増やすことで調理時間を延ばすことができます。この調理時間の延長に水を増やす意味があると思っています。吸水率の低下だけでなく、アミラーゼ等酵素の活性低下、水分率の低下など、時間をかけて吸水、糊化するための加水量の増加ということで、とりあえず私自身を納得させておきます。
よく「古米は吸水率が悪いので水加減を多めにする」という説明があります。しかし吸水率が悪いなら水加減を増やしたところで水蒸気や飯粒表面の付着水が増えるばかりではないか?との疑問が浮かびます。吸水率、吸水力を浸漬中にコメが吸える水の限界量や吸水スピードとするならば、いくら水を増やしてもコメの能力には関係ないはずです。でも、古米は水を増やした方が良い結果になることは皆さん実感されているのではないでしょうか。「吸水率云々・・・」という説明がよろしくないのか?
炊飯は加水量を増やすことで調理時間を延ばすことができます。この調理時間の延長に水を増やす意味があると思っています。吸水率の低下だけでなく、アミラーゼ等酵素の活性低下、水分率の低下など、時間をかけて吸水、糊化するための加水量の増加ということで、とりあえず私自身を納得させておきます。